野球の歴史まとめ~球史を学び、未来につなげよう~

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ベースボールの誕生

★アレキサンダー・カーライト
1845年にアメリカ・マンハッタンでベースボールの原型を考案する。
①塁間をそれぞれ42ペイス(90フィート)にする。
②プレーヤーの数を1チーム9名とし、ポジションを明確にする。
③ファウルラインを設け、それより外側に出た打球をファウルボールとする。
④アウトは3つで攻守交替とする。
⑤走者に球を投げ当ててアウトにする代わりに塁に球を送ってアウトにする刺殺を設けた。

※アレキサンダー・カーライト

・銀行勤務の後、マンハッタンでビジネスマンとして事務用品店を営んでいた。
・マンハッタンでは木造建築物が多く、火事が市民の悩みの種
・地域の防火のため、仲間たちとボランティアの自営消防団を結成
・市民から多くの支持を集めたが、ボランティアの消防団のため様々な職業
・消防団として団員の健康、運動能力、何よりも団結が求めらる。
・当時の団体スポーツはイギリス伝来の「タウンボール」があった。
・ニッカー・ボッカーズを結成

タウンボールとは

・投手は下手投げで、打者にとって打ちやすい球を投げるもの
・「打って始まる楽しいもの」
・老若男女誰もが参加でき、楽しめる。
・タウンミーティングの後に行われた。
・ファウルラインがない
・塁上での捕殺はない
・走者が塁に着くまでに野手が球を投げて当てればアウト(ボールは柔らかい)
・人数制限もない
※初めての試合:1846年6月19日ニュージャージー州 HOBOKEN Elysian Feields
Knickerbockers  1 vs 23  NewYorks

ベースボール初期の変遷

1845年 空振り3回で打者アウト
1858年 3つ目を見逃した場合もカウントすることに
1863年 ボールのカウント始まる
1876年 9ボールで1塁へ
1883年 投球はサイドからでも可
1884年 投球は上手投げとなる
1887年 5ボール、この年だけ4ストライク
1889年 3ストライクと4ボールで四球が定着
1893年 投手板とホームプレートの距離が18.44mとなる
1900年 ホームベースが5角形となる(当初は丸いプレート)

アンパイアの役割(ストライクとボールについて)

・タウンボール、ベースボール初期は格別の仕事はなかった。
⇒和やかにゲームが行われているかを見守るのが仕事
・キャッチャーの後方に立ち、ホームインの判定で観衆に向かって「今のはアウトと思うかどうか」、観衆「そうだアウトだ」と決めていた。
・試合の判定はしていないが、試合中に暴言を吐いた者に罰金を科している。
⇒当時からフェアプレーの精神が求められていた
・1858年 見逃しストライクのコール開始
⇒「good ball Strike !!」「良い球が来ているじゃないか、打てよ!」
・1863年 ボールのコール開始
⇒「unfair ball !!」「不正球だ。フェアじゃないボールだ。」

日本の球史

ベースボール伝来の功労者★ホーレス・ウィルソン
・米国メイン州ゴーラムの生まれ(1843年2月10日)
・南北戦争でペンシルベニア州市民軍に入隊
・明治4年(1871年)8月21日 明治政府のお雇い教師として来日。第一大学区第一番中学(現東京大学の全身校)で主として数学と英語を教えた。他に一般教養も。
・明治5年(1872年)来日の翌年、学生たちの不健康な生活ぶりを見て、戸外で運動することを推奨し、バースボールを指導した。
・最初に教えた生徒の中に「中澤岩太」という外野手がいた。日本高等学校野球連盟・第2代会長「中澤良夫」先生の父

フェアプレイの提唱

★フレデリック・ウイリアム・ストレンジ
・英国デボンジャー州出身
・明治8年 20歳で大学予備門の前身東京英語学校の教師として来日。スポーツ万能で得意はボート。
・明治9年 外国人同士の野球試合にH.ウイルソンたちとプレー。レフトを守っている。
・明治16年 ストレンジは学校スポーツの必要性を説き、ストレンジ指導により日本で初めて本格的な陸上運動会が神田錦町で開かれた。ストレンジは今日、日本全国の学校で定着している部活動を開祖した人物。

★フェアプレー・スポーツマンシップの提唱
①定刻を厳守せよ。
②奮闘努力せよ。負けても、負け惜しみを言うな。
③競技は公明正大にやれ。卑怯なことをするな。
④審判に服従せよ。人は神に非ず。ときに判定に誤ることもあるが、異議を唱えず、冷静を保て。
⑤プレーを楽しめ。自分より優れた相手を敵視するのではなく、師とせよ。
⑥賞品は記念品のみとせよ。
⑦倹約はスポーツマンの第一の信条。他人に憐れみを乞うまでして贅沢をするものではない。
⑧練習は学業の暇にせよ。そして練習場に立ったときには、さっさと練習をして、終わったら速やかに去れ。長く残っても気迫が弛緩するだけだ。克己節制、制欲、忍耐、勇敢、沈着、敏活にして機知縦横、明快にして気宇壮大これらの気質特性こそ、天がスポーツマンに与える最高の賞品ではないか。

初期の日本球史

・1872年(明治5)第一大学区第一番中学(のちの東大)ホーレス・ウィルソンがベースボールを伝えた1873年(明治6)同中学が開成学校となり、新校舎の運動場で攻守に分かれてゲームを行う。
・1878年(明治11)米国より帰国した平岡限が、本場の野球知識で本格的野球チーム新橋アスレチックス倶楽部を結成。また他の学校やクラブを指導し普及にも努める。
・1882年(明治15)新橋クラブは日本最初の野球場を作り、保険場と呼ぶ。
・1885年(明治18)波羅大学(明治学院大)、青山英和学校(青山学院大)、慶鷹義塾等でも盛んに行われる。
・1886年(明治19)一高(のちの東大)チーム創立
・1894年(明治27)中馬庚がベースボールを「野球」と訳す。
・1896年(明治29)一高が横浜外人チームと国際試合を行い、大勝する(5月23日横山公園運動場にて29-4)。この勝利で全国の野球熱が高まり、各地の学校で次々に野球部が誕生。一高などでの野球経験者が母校(中学校)を訪れるなどして、技術指導をし、普及していく。
・1903年(明治36)早慶戦始まる
・1904年(明治37)一高が早慶に連敗し、球界の中心は早慶に移る
・1906年(明治39)一高(のちの東大)、三高(のちの京大)で定期戦始まる応援の過熱で早慶戦中止1910年(明治43)野球害毒論争が発生する。

野球害毒論とは

東京朝日新聞社が1911年(明治44)「野球とその害毒」連載記事を22回にわたって掲載全国に野球が伝播し、大流行するにつれ、学生達が野球にのめり込み過ぎることなどに対し高等学校や中学校の校長などが、いわば野球のマイナス面、批判を展開した。
・時間を浪費させる
・勉強がおろそかになり成績が下がるなど特に新渡戸稲造(一高校長)は「野球は巾着切りのスポーツ」(スリのスポーツ)と喝破した塁を盗む、相手を賜す、計略に陥れる。

野球擁護論も展開

「野球害毒論」に対して、東京日日新聞、読売新聞らが積極的なスポーツによる教育論を展開し、野球擁護の論陣を張る。
・嘉納治五郎(東京高師校長)
・鎌田栄吉(慶鷹義塾塾長)
・安部磯雄(早稲田大学野球部長)
※学生野球の父と呼ばれる橋戸信(早稲田大学元主将)
※都市対抗野球を創設

また擁護論者は「野球害毒論」に対抗し、各地で大会を開催した。これまでより、よりー層、フェアプレー、スポーツマンシップに溢れた大会。

全国中等学校野球選手権大会創設

大阪朝日新聞社が野球を通じて健全な青少年を育成するという目的で大会を創設。※当時、高野連はなかった。
日程:1915年(大正4)8月18日
場所:大阪府・豊中グラウンド
予選参加:73校全国大会出場校:秋田中、早稲田実、山田中(三重)、京都二中、和歌山中、神戸二中、鳥取中、広島中、高松中久留米商合計10校が出場

「スポーツマンシップと武士道は同じ」との考えのもと試合前の敬礼はこの時に始まった決勝は京都二中2-1秋田中に勝利し優勝

第3回大会から鳴尾球場へ

大正6年の第3回大会から阪神電鉄が、鳴尾競馬場のトラック内に2面の野球場をつくり、大会を誘致。5,6千人の観客を収容できた。
予選参加校数、118校全国大会(8月14日〜20日)初めて入場式が行われた。
参加校数12校
決勝は、愛知一中1-0関西学院

全国選抜中等学校野球大会創設

1924年(大正13)毎日新聞社名古屋支局の主催で、名古屋市昭和区八事の山本球場で開催。
選考基準>過去1年間の試合で、最強チームと認められたチーム8校を招待
日時:1924年(大正13)4月1日
場所:名古屋市山本球場
出場校:早稲田実横浜商愛知一中立命館中、和歌山中市岡中高松商松山商合計8校が出場
決勝は高松商2l0早稲田実に勝利し優勝

甲子園大運動場完成

大正12年(1923)の第9回大会準決勝、甲陽中一立命館中で、超満員の観衆がグラウンドに流れ込み試合続行不能になる。このことが甲子園球場建設の契機となる。

阪神電鉄の三崎省三専務(当時)が、大運動場建設を提唱、武庫川の廃川となった地域3万坪を買収、第10回大会に間に合わせるよう突貫工事が行われた。

1924年(大正13)起工3月15日竣工7月31日開場8月1日24

選手権大会、選抜大会も甲子園で

第10回選手権大会
予選参加校数263校
全国大会(8月13日〜19日)
出場校数19校
阪神甲子園球場の初戦北海中5-4静岡中
決勝広島商3-0松本商
※大会3日目土曜日に早くも収容6万人といわれたマンモススタンドも満員札止め
大正14年の第2回大会からセンバッ大会も前年完成した阪神甲子園球場で開催。

第2回センバツ大会(3月31日〜4月5日)
出場校12校
横浜商、長野商、愛知一中、和歌山中、市岡中、第一神港商、甲陽中、広陵中、島根商、高松商、松山商、鹿児島商
決勝 松山商3-2高松商

「野球統制令」の背景

年々、人気や注目度が増していき、本来の「教育の一環」としての学生野球から自浄能力が失われていった(ガバナンスの欠如)
・勝つためには手段は選ばない
・学生野球を商業的に利用する(興行化)
・大会で優勝すれば、数か月間にわたるご褒美旅行など

文部省は統制令前年までに担当者をアメリカに派遣。NCAAの調査当時、NCAAでも同様に学業との問題や生徒の健康問題など日本と同じような状況が問題視されていた。NCAAの実態調査をしていたカーネギー財団の資料を持ち帰り参考とした。統制令前に文部省は学生野球関係者に全国的な組織を作って正常化を図るよう訴えた。しかし、当時の東京六大学関係者は、全国的組織を作れば国の関与を許すことになる。東京六大学は今でもリーグ内の統制は取れていると反対した。

「野球統制令」の施行

文部省は全国的組織が出来るまでのとの前提で、1932年(昭和7)3月28日、文部省は「野球ノ統制並施行二関スル件」訓令第4号(野球統制令)を発令。

当時の初代体育局長は小笠原道生(みちなり)で、第1回選手権大会で和歌山中学の選手として出場。東大医学部、文部省入局。平時の野球活動や大会、リーグ戦の開催は行政の許認可を得ることが義務付けられる。

統制令以後、段々と戦時色が濃くなっていき、軍部が学生野球に弾圧を加えるようになった。

「野球統制令」の廃止に向けて

戦後、民間の自主的な統制団体の結成を目指した。1946年(昭和21年)学生野球指導委員会を関係者らが設置、野球統制令廃止、廃止後の健全運営に向けて動き出す。
委員長:外岡茂十郎(早大教授)
委員:佐伯達夫(日本高等学校野球連盟第3代会長)ら41名
1946年(昭和21)2月25日全国中等学校野球連盟設立
12月21日日本学生野球協会設立

自主自律の精神で学生野球を監督し、運営していく体制、「学生野球基準要項」を定める(統制令の内容とほぼ同じ)加盟校に対する規制より、大会主催者への規制が主な内容(主催者を限定開催計画と決算書の提出など)このような背景があり、不祥事に対しては自らが厳しい措置を科した。これを緩めると再び国の関与を許すという強い懸念が学生野球関係者にはあった。

日本学生野球憲章について(抜粋)

第2条(学生野球の基本原理)
①学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。
②学生野球は、友情、連帯、そしてフェアプレーの精神を理念とする。
③学生野球は、法令を遵守し、健全な社会規範を尊重する。
④学生野球は、学生野球、野球求部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない。
⑤学生野球は、一切の暴力を排非除し、いかなる形の差別をも認めない。
⑥学生野球は、アンチ・ドーピングの教育、啓発、対策への取り組みを推進する。
⑦学生野球は、部員の健康を維持・増進させる施策を奨励・支援し、スポーツ障害予防への取り組みを推進する。 ⑧学生野球は、国、地方自治体または営利団体から独立した組織による管理・運営を理念とする。

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